周代の歴史
殷の王、紂王(ちゅうおう)を武王(ぶおう・後の初代周王)が「牧野の戦い」で勝利し、紀元前1046年に周王朝が誕生します。(※西周ともいわれます。)
周王朝では、一族を中心に「封建政治」を取り入れました。 子供や親戚に称号を与え、地方の君主として(今の知事)配し、民衆に年貢(今の税金)を納めさせ、軍を作り、周王朝の力を強固なものにし、民衆を力で押さえつける政治を行っていたそうです。
しかしその後、力による政治に不満を持つ人が出始め、多くの問題も発生します。
そのことにより、周王朝の力が弱くなり、紀元前771年、犬戎(けんじゅう)が異民族を従え、周王朝の都を奪い取ります。 そのため、周王朝は「洛邑(らくゆう)」に都を移し、再起を図ります。 この時代から「東周」とも呼ばれ、西にあった都を東に移しました。 これを機に各国に力があるものが出始め、周王朝の椅子取り合戦が始まります。 これが「春秋戦国時代」と呼ばれる、乱世の始まりです。
※ 補足:春秋とは孔子の書、「春秋」から肖ったもの。 この先からが、今話題の「キングダム」の世界ですね! キングダムの話は次回にお話します。
周代の青銅器と銘文の移り変わり
歴史の流れからでも分るように、周代は力で政権を勝ち取り、力で政治を行ったので、自己主張が激しく目立ちます。 その為、殷代の青銅器と比べて、青銅器の模様はそんなに激しくなく、器に書かれた文字が格段に増えます。
周公簋(しゅうこうき)
銘文は8行68字、器の内底にある。 周公旦の子孫と思われる栄が井侯の恩命に感激し、周室のために奔走することを祈念してこの器を作った。
周初期はまだ殷代のスタイルを継承している。
大克鼎(だいこくてい)
290字からなる長文の銘文が鋳込まれている。 銘文は細い凸線による長方形の格子の中に、 一字ずつ配されている。 銘文の内容は、大きく二つの部分に分けられる。
前半は、周王に仕えた克という人物が、自分の先祖である師華父が西周の共王を助けて政治に貢献したことと、現在の同工が師華父の功績を忘れず、克を王命を伝達する重要な役目に任じたこととを述べる。
後半は、王が克を召して克の任務を確認し、あわせて礼服・土地・奴隷を賜わったことと、克がこれを記念して、師華父を祭るために立派な容器を作ったこととを記している。
この大克鼎(だいこくてい)のように、中期頃より、100文字から300文字以上の銘文が出現します。 これは成果を上げた「将」(日本で例えると武士)がどのように成果を上げ、何をしたかを詳しく載せる為でもありました。
このことから分かることは、殷代の宗教政治から比べて、周という王朝では人が人を支配する政治になったということです。 詳しい記録や説明をするため、残す為に、文字も大量に必要になったと考えられます。
※楚国の木簡と青銅器画像
後期には各国の特徴も出始め、様々な字体が生まれます。 様々な字体が生まれた理由は、周王の力がなくなったと同時に、自国のことは自国でするという政治、言わば、それぞれの国が自己主張を持ちだしたからなのです。 特に、楚国は独特な文化を持ち、字体が他国と全く異なり、楚ならではの特徴があります。この他とは全く異なる文字こそが、下剋上に成功したことの象徴ですね。
まとめ
周前期の青銅器は、殷を継承しつつ文字数も増え、周王朝の力がいかに大きなものであったかを表しています。 文字の配置も、初期の頃は統一というには程遠く、綺麗に配置されず、ただ並べている様に見受けられます。
中期になると、青銅器の装飾も減り、文字が増え始めました。 これを見ると、周王朝がとても強固であり、確固たる国家になったことがわかります。 文字の配置も統一され、見た目にも美しいと思えます。
そして、後期になると各国の独自の文化を持ちはじめ、特に楚国の文化は金文の早書きとも思え、コロコロした文字を用いた篆書が見られるようになりました。 時間短縮、早く効率的に多くの文字を書き出すことに成功している部分から、楚の国は独自の政治を効率的に行う事ができたこと、つまりは下剋上を成功させる力を持っていたことが見受けられます。
このように、文字の形、配置などでも、その時代の背景や特徴がみられます。 字の移り変わりが、移り変わる時代をものがたり、綺麗に読み手に読みやすく見せようという「可読性を重視した上での美的意識」も伺えます。 文字は歴史の変遷と共に発展をし、書き手と読み手のため必要に応じて進化をし、神とのコミュニケーションから人へと展開し、情報伝達の道具として強固な物になりました。