青銅器の銘文と文字の変遷
紀元前1600年~紀元前207年までの1500年以上、青銅器は政治や報酬、宴、神霊等に用いられていました。 この長い年月の中で、政治の仕方や民衆の多さ、書体も移り変わります。 ではこれより殷代~秦代までの政治と、青銅器の銘文の移り変わりを解説していきましょう。
殷代の政治と青銅器のあり方
殷は、紀元前17世紀~紀元前1064年までの王朝で、「夏」王朝を滅ぼし、王朝を立てたとされています。 商朝とも呼ばれ、紀元前11世紀に周によって滅ぼされました。(殷周革命) 殷代は祈りや占いによる政治が中心で、生け贄等で安静をもたらすことが出来ると信用されていました。 言わば神を崇拝する宗教政治になっていました。 その為、青銅器には模様が入り、神と人を繋ぐ事を前提に作られ、実用的な物からかけ離れていたと考えられます。
青銅器の多くは神様や先祖を祭る、儀式の為のお皿や壺などの道具でした。神様を祭る時には食べ物を供え、酒を満たし、神霊(神様)と共に宴を行います。 この事から分かるように、青銅器は神様と人々の架け橋になる大切な「神道具」として使われていたようです。
金文とは
金文(きんぶん)とは殷、周時代の青銅器に彫られた文字や銘文のことで、金文の金は「青銅器」を指し、文は「銘文、彫られた文字」の事を指します。
殷代の文字の特徴
殷代初期の銘文は、文字というよりは、絵に近い文字が多く、2字や3字、多くて10文字位の文章になっています。 これは民衆と王族や、神と人を区別するための物であったと考えられます。 青銅器の内容としては、家族関係や神を崇める内容、社会のあり方を示す内容が多く、自己表現の現れとも考えられます。
殷代後期になると、20文字や30文字、40文字を越える銘文も出現します。 これは王族からの恩賞などを神様に報告することもあったそうです。 この事で宗教的な政治より、王族が支配する政治が強くなり、宗教政治と無関係な青銅器が多く見られます。
まとめ
青銅器は、元々、神様との交信をする道具として作られました。 殷代初期は文字数も少なく、文字というよりは絵に近い文字が出現しました。 こうして自己表現が芽生え始め、それと共に、神様が決めた内容で政治を行う「宗教政治」が主流になりました。 後期になると、文字数が増え、家族との関係や、王様からの恩賞などで青銅器が用いられました。 このことにより、今度は宗教政治から「王族が支配する政治」に代わり始めました。 これは王族の元に人が増え始め、秩序や法律を使わないと支配できない状態になったからであると考えられます。
文字の数や、文字の変化によってその時代の歴史や人々の考えが分かります。 このように文字は、時代と共に歩み、一番使いやすい道具として活躍の場を広げていきます。
文字は、人々にとってかけ換えのない道具となります。