漢字の産みの親「蒼頡(Cāng Jié)」
神話によれば、漢字は黄帝に仕えた史官の蒼頡によって4000年前に発明されました。彼は四つの目を持ち、異なる次元が見え、物事が持つより深い意味を読み取ることができたといいます。
ある日、蒼頡は山を歩いていると一匹の巨大な亀をみつけました。蒼頡の目に留まったのは、亀の甲羅に伸びる青いすじ。彼は慎重にそのすじを研究し、甲羅の模様には意味が内在することを見つけました。そこで蒼頡は、簡単な線の組み合わせにより、人間が考えを表現したり、記録を取ったりすることを思いつきました。 そして、蒼頡は星の分布、動物の形、大自然の営みをつぶさに観察して記号を発明し、それぞれに異なる意味合いを持たせました。蒼頡が記号を使って彼の考えを人々に伝えると、人々は理解することができました。彼はそれらの記号を文字に変え、漢字を作ったと古代の書物に記録されています。また説文解字は、「蒼頡ははじめに作った文字はみな象形文字であり、これを「文」と呼ぶ。その後に形声文字が作られ、これを「字」と呼ぶ」としている。
(文・David Wu / 翻訳編集・郭丹丹)
※あくまで一説なので、真実と異なる部分があります。
蒼頡は、中国最初の国、「夏」の皇帝という説もあり、実際には証明されていない。ただ、蒼頡以降、漢字が中国で作られ、日本に渡り、情報伝達として日常化したことは間違いありません。ではその文字(もんじ)はどのような目的で作られたか話していきましょう。
※以降文字(もんじ)と読むことにする。
甲骨文字の発見・国の政治と甲骨文字のあり方
中国の文字がいつごろから出現したか、詳しいことはわかっていません。しかし、言語(言葉)を表記したことは間違いありません。ということは、文字ができる前に言葉が存在したということになります。なので4000年前の中国人は中国語を話していたことが、ここで証明されます。
文字という手段は、情報を残す、伝える為の手段として発明された、画期的な文化遺産といえます。しかし、当時は文字数が少ない為、ある程度まとまった分量が必要とされます。
※簡単に説明すると、「ありがとう」の言葉には5文字必要になります。この分量が必要になるということです。
甲骨文字の発見!
清(しん)王朝末期の1899年、王懿栄(おういえい)は、マラリアの薬として竜骨という漢方薬を購入。すると、王の幕客であった劉鶚(りゅうがく)が、竜骨に模様のようなものが刻まれていることに気づきます。王と劉は、これを文字だと推測し、竜骨を広く買い集めて研究に没頭、これが殷王朝時代の文字だと判明。そしてこの文字は、亀の甲羅や牛などの骨に刻まれていたことから、甲骨文字(こうこつもじ)と呼ばれるようになりました。その後、研究によって、全甲骨文字4800、4700のうち、1000文字あたりが解読されました。甲骨文字の発見により、神話から歴史となり、書道にも大きな影響を与えました。
現在最古の文字は「殷(いん)」時代の甲骨文字だと言われていますが、甲骨文字以前も、何かしらの形で文字が存在していたと考えられます。
甲骨文字が当時どのように用いられていたか
骨を焼くと、ひび割れが生じて来ます。このひび割れの形、長さ、ひびの向きなどによって結果を占うのが甲骨占いです。
殷(いん)王家は国政(政治)や農業の吉凶を占うために亀の腹甲や牛の肩甲骨、鹿の頭蓋骨、人の骨にも甲骨文字を刻んでいました。占いで出た内容を神様に問いかけるための神聖な文字でした。占いを行う人を「卜人(ぼくじん)」といい、卜人が占った内容を上記の写真のように刻んでいました。
特に用いられた動物は「亀」が多く、亀の甲羅を「空」亀の腹を「大地」に見立てて、神の遣いとして崇められました。なのでことわざにあるように、「鶴は千年、亀は万年」といい、現代でも、亀は重宝されています。
まとめ
蒼頡が文字を作り、政治や農業の吉凶を卜人に占ってもらい、その内容を骨に刻んだ。そのことを清の時代1899年、王懿栄(おういえい)がたまたま発見し、研究をした。研究の結果、殷(いん)代のものと分かり、文字の始まりのきっかけになった。
漢字はもともと、神様に占いの結果を報告するための手段として使われました。漢字は神聖なもので、限られた人しか使うことができなかったということになります。殷代は筆や紙が少ないので骨に刻み、情報として残しました。このことが後世まで語り継がれ、神話として語られたことが、歴史として証明されたことになりました。
文字は現代でいうモールス信号のようなものだったと考えて間違いないと思います。神様の意向などで政治を行い、占いで民衆を束ね、吉凶が政治の中枢だったことから、宗教政治が政治の始まりだということもここでわかります。
漢字を紐解くと、その時代の背景や人々の思いなどが理解できます。
昔も今も変わりありません。占い好きな人が現代より多く、政治にも取り入れたということです。